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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

今拓く華と路と空と風6 

      今拓く華と路と空と風6

 70歳からは歳の心情では描いておりません。時に書きたい事を書き著わすことでその時々の感状起伏で当時を想起するために、心の漂泊として真実を見つけたいと言うこころみとして見つけたいと思う事で書き込みをしました。

随筆思う事をつれづれに

 季節の旅へ 2016/6/26

 人はある時に偶然気づくものなのかもしれない。
 それは季節の代わりを自然に感じるように、その変化にとまどうように…。自律神経の病を持っていれば敏感にそれを受け止めなくてはならないことだ。四季の巡りの中で気圧の変化が体の変調をきたす、特に季節の変わり目には顕著である。
 だが、歳をとってくるとその変化に順応していたからだが悲鳴を上げることも多くなった。常に頭痛が慢性化し、眼がしょぼしょぼし、胃腸の変化に戸惑う事になる。そんな中でなぜか頭の働きは研ぎ澄まされたように明晰になっている。これはどう言う事なのかは不明である。
 歳とともにやり残したことをやり遂げようと思う事は常習化している。時間があればその事に拘り解決を急ぐ。明日を約束されていない焦りなのか…。
だが、それを平然と受け止める心はある。
 今まで書きあげようとして書くのを辞めていた作品も数多い。それを一つずつ終わりに向けて書きすすめているが、それが私の終わりとは思いたくはない。新しい作品をと言う思いはあるが、物語を構築するには気力の衰えを感じる。
 若い頃には二時間之舞台の台本は一晩で書けたが、今ではそれは出来ない、早くて一カ月はかかるようになった。それは思考の衰えなのか、体力の低下なのか、考えないようにしている。
 昨日、「砂漠の燈台」完結した。不確かな人間社会の中で生きると言う意味を問うものだ。これももう二十年前に書き始めたもので、その先には書けなかったのだが、今は書くことが出来た。見えてきたという事なのかと思う。
 歳をとって思うのは、若い頃の文章よりセンテンスが長くなっていることだ。谷崎文学を称して言われている、文章の長い人は心臓が強い問う事があるがそれが立っているのか同化は不明であるが、言い回しが多くなり曖昧になっているのかも知れない。断定を避け疑問としてん嘆かるものが増えたという事なのか。
 今、政治に対しても、経済に対しても考えを押し付けることが多くなった。私のなかに社会の、人間の定義が定着してそれを押し付けているのかとも思える。不正に対して、正義を唱える、こうでなくてはならないと言い切る態度は一つの思考だが、それが誤っているとは思わなくなった。傲岸で不遜な態度に失速感の戒めを持つが出た言葉は帰らない。
 優しい、理解を求める書き込みが増えている。これは私の後退なのか謙譲なのかと思う。
 特に感じるのは日本人に失われた死生観である。それを持って生きることで反省と責任が生まれ、次なる世代への譲渡がなされことを思う日々でもある。
 今日は梅雨の晴れ間が続いている。少し肌寒いが心いい日和である。
 時に多弁になる攻撃的な言葉を吐く、そんな時に生きている実感を持つ事はやはり心が乾いているという事なのだろうか…。
 
おかやま県民文化祭実行委員会事務局 殿

お誘いの案内を拝受いたしました。
私は他で小説も戯曲も賞を頂いています。
だが、なぜ前に応募したのか、
今、日本には文学も哲学もない状態が続いています。その原因をここで述べるつもりはありません。が、岡山に住み岡山県に嘗てあった文学への情熱を失わなかった人達への鎮魂の思いで投稿いたしました。
今、の岡山県の文学、演劇、絵画のレベルは日本国のレベルが低くなっていることに相応して低下している不幸をかなしんでいます。
私は瀬戸内海文学、青騎、瓢箪と言う同人誌を編集していました。岡山県下の文学青年から生の原稿が寄せられ丁寧に読ませてもらいました。
完成された文章の作品より次代を見据えた作品を、それらを掲載いたしました。当時、岡山県の文学の発信として評価されていました。私は世間では重鎮と言われていた山本遺太郎氏とは考えが違いお会いすることもありませんでした。遺太さんのその功績については何も申し上げることではありません。が、色々と噂は入ってきていました。
私は60歳にして総てを捨てました。
だが、今に至る時に、世界史、日本史、世界の宗教を勉強してきました。
なぜ、今の日本に文学者がいないのか、哲学者が現われないのかを考えるようになっていました。
岡山県文学選奨の意味も考えてきました。私はその受賞作を一遍も読んでいません。が、受賞のあとその人達の動きがまるでないことに失望しました。なにが目的なのか、作家として育てることなのか、その一遍で終わりなのか、私は書き続け欲しいと思って待ちました。
戦後の岡山県下の文学を知る人はもうほとんどが鬼籍に入っています。残っているのは杉原不二夫氏と私くらいになっています。この前逢って杉原氏にその事を告げ書くことを勧めました。
遺太さんが本に書いていますが、現場にいなかった人の見かたでした。
当時沢山の復員兵の方たちが書いた原稿を読ませていただきました。生の声を聞き取りました。雑誌には掲載しませんでしたが、とことん話し合いました。それも今は懐かしい思い出です。
なぜ、岡山に文学の土壌がなくなっているのか、これはみなさんが考えてほしいものです。
今私は自分のために書くことが多いいのです。原稿料を貰って書いていた時とは隔世の感があります。
芸術文化は行政の手のなかでは育ちません。人間がどのように生きるのかがその基本だと思っています。
文学も哲学も人間の、社会の新しい発見がなくてはそれを必然としてのものは書けない事でしょう…。
ありがとうございました。

2016/6/29  今田 東
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私の文学の方向性 2016/7/3

 私は六十才まで劇作家と演出家をしていた。それをその年になって総て棄てた。それまでに劇作を四百作、小説を三百作程書いていた。劇作の場合は小説を脚色すると言う方法を取った。つまり小説を書きそれを脚色して台本にするという事だ。また、自作を公演する劇団も抱えていた。小さなスタジオも持っていてそこで公演もできた。
 若い頃にはそれらの勉強のために同人誌に入っていた。また、同人誌を編集することもして生の原稿を沢山読んだ。県下の物書きになりたい連中が集まりだした。その同人誌は全国的に評価され文学の発信地となった。
 そのころの文学熱はすさまじかった。賞を取るためにみな真剣に研鑽していた。戦後二十年のころである。戦後の貧しさからいち早く解放されるように働いていた。生活は少しずつ安定してきていたが心を満たされない人達が原稿用紙に自らの思いを書きこんでいた。そのころの作品を読んでいても非常に前向きな作品が多く見える。功なり名あげたいと言う向上心は読みとれるものが多い。それらの作品には匂いが感じられるものも多い。生活の場での生き方が苦しくても貧しくても充実していたと言う事が感じられるものだ。
 だが、作家になると言う事は夢の世界でもあった。そのように書く人の言葉を表現してもその当時の世相が受けいれてくれるかという問題があった。占領政策によって日本人の精神は断たれ新しい生活と考えを植え付けられようとしていた時期、占領政策は終わってもそこに残された新聞テレビ映画スポーツなどの誘惑にどのように対処し対抗するかと言う想いが失われつつあった。国民は総て安易な快楽と娯楽へと歩き出していた。そのなかで何を書けばいいのかと言う疑問がわいたはずである。それを前にして立ち止まり考投棄する人たちが増えていった。家庭の平穏を子供たちへの教育投資のために退いた人も多かった。あの頃も作家と言う道は平たんではなくそれで生活が出来ている人は一握りにしか過ぎなかった。
 同人誌は潮が引くように後退して行った。
 三島由紀夫が自死することで日本の文学は終わったと思っている。
 それから日本には文学不毛の時代が今も続いている。それに拍車をかけたのが作家が物欲に走ったという事を告げなくてはならない。
出版社も売れる本しか、つまり大衆が求める作品しか出さなくなったという事がより不毛に拍車をかけることになる。
 それは作家の作品集である全集が作られないと言う事に言いかえられる。つまり全集を組むほどの作家が輩出されてはいないと言う事なのだ。
 また。その足を引っ張ったのは日本に哲学者が一人として現われていないと言う事もある。西洋の哲学書を読みあさった人達と、そうでない人達とは比べられない心の深さが異なる事は言うまでもない。だが、今その西洋の哲学書が今の時代に役に立つものなのかと言う疑問もある。それだけ人間は幅広く生き方を変えたという事であろう。その最たるものに宗教がある。キリスト教を筆頭にイスラム、仏教、ヒンズー教、あまたの新興宗教の時代に楚喰わない教義が蔓延し混乱を呼んだという事である。人間はその意味を見失ったと言えよう。
 その事も日本に新しい、哲学も文学も生みだす素地をなくしひろがっていたそれらの予備軍に対して前途を混迷の物に変えたと言えまいか。
 いま、私の住むところの市や県は文学賞を制定して賞を出しているが、それは税金の無駄遣いにすぎないと思う。つまり、今の世の中かに文学が必要と思う人達は少なくなったという認識はないということだ。安物の安らぎに心奪われている人達にはそれを受け入れる心の余裕と向上心もないのだ。
 今のように自分の行為に対して反省も責任もとらない世相に何を根拠にして考えればいいのかと言う基準が見えないからだ。
 それらを区別するのは哲学であり文学であることを人は受け入れず放棄しているのだ。そり判断をする能力もなくただ安物の感動で満足をするという、時代に立ち向かう姿勢がなくなったという事なのだ。
 行政の手による文化芸術はむしろ邪魔である。安易に賞を与えるべきではなく、文化賞とか奨励賞とかなど何の価値もないものを喜んでおしいただいている似非文化人たちの何と多いことか。
 問いたい、それらの人達は人間の社会のなかで新しい側面を発見しそれを必然として書き作ったことがあるのかを、それをものにした人には当然与えられるべきだが、その賞金で受賞パーティーを開いているようでは後が続かない事を知らなくてはならない。そんなことをせずにその金封を寄付するくらいの気構えが欲しいものだと思う。その心が次なる新しい発見を生み必然が書け造れるという事である。
 その厭さが今の日本に顕著に表れていて、大衆に迎合する文化の氾濫をまきちらしている事はかなしい現実である。
 
 
岡山県下で文学の手本を示した人達 2016/7/5 (百間はエラーになるのであえて使った)


 岡山県下にゆかりと言えば、正宗白鳥、志賀直哉、内田百間、坪田譲治、与謝野鉄幹、小山裕士、柴田錬三郎、横溝正史、棟田博、藤原審爾、小林実、塩見鮮一郎、それくらいしか思い浮かばない。また、芥川賞の候補になったのが赤木けい子、小野東、右遠俊郎くらいであったと記憶している。
 戦後の同人誌は藤原審爾さんの「山陽手帳」小林実さんの「瀬戸内海文学」を筆頭に、「岡山文芸」「尖塔」「備中文学」「まがね」「青騎」「瓢箪」、直島の療養所の人達も出しておられた。「備北文学」もあったように思う。
 私は「山陽手帳」がなくなった以降であるのでその事は書けない。ここに名前を挙げた同人誌とは付き合いがあって出版された時に頂いていた。こちらも出版すれば読んで頂きたいと送った。そのやりとりでここに書いているのでもっとあったかも知れない。当時私たちのところには全国から送りとどいていて、「文芸首都」では沢山の同人が芥川、直木氏賞を取り作家へと路を進めていた。北海道、青森、宮城、千葉、新潟、石川、富山、居と、大阪、兵庫、鳥取、広島、香川、愛媛、福岡、長崎、等本当に立派な作品を載せていたのを読ませていただいた記憶がある。記憶では広島の「午後」の作品の心ひかれた。
 どの同人誌も「文学界同人誌批評」「文芸同人誌批評」に取り上げられることを目指していた。新聞の評価も同人誌のレベルの基準になるので注目していた。
文学界のものでは杉原不二夫氏の「源作爺さん」がその月のベスト五に入ると言う傑作であった。そのころ、岡山の同人誌は批評を受けて新聞紙上を賑合わせていた。全国の同人誌から読ませてほしいと金子を送られけることが多くなり雑誌の交換も盛んになった。
岡山の同人誌もそれぞれ色がついていた。社会党系、共産党系と言う風にである。
どこの同人各氏も盛んに懸賞に応募していて、一次二次と進む人達も多くいた。
そのころの岡山県下の文学を志す人達はその当時のレベルとしては高かったと思う。新聞各社の批評には常に載っていた。行政の援助はなかったしそれをあてにせず自腹で読み書くことの喜びを甘受していた。
それが徐々に汐が退くむように後退していくきっかけは三島由紀夫の自死あたりからであった。また、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカの文学が衰退していた時期でもある。また、実存主義が消えていく時代でもあった。それまでの西洋の哲学は世界の多様な価値観の依って通用しなくなって読まなくなっていった。
たとえば「マルクスの資本論」はそのころのその方面の人達は枕にするほど読まれていたが、今、マルクスに書かせた人の名が出て呆れかえっているが、当時はそれが教科書でもあった。そのころ時を同じくして出版され世界で愛読された哲学、経済もののほとんどがマルクスに書かせた同じ集団であることも周知の事実となっている。
文学青年が自らの才能に見切りをつけ、また、経済的に成り立たなくなって辞めていった。歳を取ったという事なのかも知れない。し、夢のように世界に見切りをつけたという事なのかも知れない。
「新日本文学賞」辞退した大江壮、「女流文学賞」の佳作の梅内ケイ子、等は華麗に転身し勇退していった。
 日本には文学、哲学がなくなっている証拠に、大学の文科の撤廃がささやかれている現実もある。
 同人誌が退潮していくことには、世間が文学では食べられないと言う事も言える。また、書く人達か文学的な生活から程遠い所で生きているという事もある。
 今、岡山県下の文学の事は何も分からない。その低さを嘆きながらも何もできないもどかしさはある。これは世界の、日本の顕著に表れている現象である。
 現今には人間の、社会の新しい発見がなくそれらを排出する素地の必然がなくなっていることなのか。
 今、日本には何百と言う賞がある。が、出版社、新聞、各都道府県のものはただのパフォーマンスになって仕舞い、金儲けの餌と化している。
 今、の世界の人達の、日本人の精神の空白の表れであろう。ハウツーものが売れてはいるが、文学は今や希少価値になりつつある。
 提言したい。坪田譲治の作品集を、内田百間の作品集を出版されて懸賞に華を添えられてはどうか。
 ここまで書いて、私は絶望をしていない。パソコンの中に素晴らしい書き手がいる事を知っているからだ。
 その人達は、世界の古典文学に親しみ、哲学書を読み砕き人間の根源的なことに精通し、それを背面教師として現実を直視し未来の人間の姿を表現し漂白しようとしている。それは表に出ることを目的にしておらず、懸賞には応募しなくて作家になることもないことだろう。その人達は自分に対しての戒めと今の世をどのように過ごすかと言う宿題の為に書いているのだ。また、それらの小説が審査員の見識を動かす事はない事を知っている。十の審査員は十の作品しかとらない、それ以上がわからない事を知っていて今夜も書き連ねていることだろう。
 だが、私はそれが必要となる未来を予感している。
 ここではっきりと言う。村上春樹の作品が世界でもてはやされ日本でも読者が多い事は、その人達を満足させることにより作家の自尊心を満足させているものにしか過ぎない事を。村上春樹には新しい知恵が見えない。
 哲学者も文学者も隠されている真実を発見しなくてはそれを必然とした作品が書けないと言う事を知らなくてはならない。
 現実はまさにそれを求めている事を忘れているのだ。
 失礼と思うが敬称は略させて頂いた。


文学の軌道 2016/7/6

 私も作家協会に所属していた。だが、そこで行われていたのは著作権への妄執であった。私はあきれた、こんなところに居たくないと退会した。
 原稿料をもらい出版に対しては印税を頂き、その上に三十年の著作権を維持する、何とおぞましい事なのかと思った。
 今その著作権があいまいになっている。著作権と言うものは人間の考えで想像して創られたものにしか存在しないと言う事を皆知らないらしい。それなのになんで書いたものがあればその権利が生まれると欲の皮を厚くしている。科学、新聞にはそれはない。コピペは違法ではなく著作権の侵害にはならない。歴史家、郷土史家の書いたものには著作権はないのである。それをあたかもあるように言って盗作を許さんと吠えている人達がなんと多いことか。
 文化人と称する人達がそれに固執するのは浅ましいと思える。
 あなた方は金のために書いているのかと問いたい。自分のため、人のためにこのように考えた方が正しいのではないのですかと提言する、それを作品にする、その作家の矜持は何処へ行ったのかと言いたい。著作権に固執する事はそれだけ己を小さくすることが分かってはいないことなのだ。ある時期、文庫本にしたあたりからその権利の放棄が望ましいと考える。だが、そんな作家は一人として現われない。
 これは賞を貰い金子を寄付することなく、仲間内で祝いのパーティーを開く人達と同じで、そこでものつくりの生命は閉ざされていることの認識がない。だからその一作で終わるという結果が付いてくる。
 作家になりたい、作家でありたい人達が、人間の生き方を知らないようでは人様に何を提言してもそれはむなしいものになる。
 国も県も市も色々となした人達に褒章を与えているが、それは人間として当たり前の事をしただけですとなぜ辞退しないのかが分からない。それらの人達の心に我執がある、名誉、名声、財産などは捨てなくては創るものも造れないし、その後の生き方はまやかしになってします事なのだ。欲の皮を厚くしないで謙虚に辞退するその姿勢は次なるものつくりに新しいものを作らせる原動力であることを知らない。
 まあ、それだけその人達と与える人達が民度も低く精神も劣化しているという事だ。
 若い頃西洋の古典に心を震わされ感動し、日本の先達が書いたものに心酔したのも心深いその精神から生まれるものに対してであった。そられは私のしらなかった世界を感じ取らせてくれ深くものを考える力を授けてくれた。
 さて、今の世界の、日本の文学に何があるのだろう。日常茶飯の心の動きだけを書き連ね面白おかしく表す、それは何を人に告げようとしているのか分からないのだ。ドフトエフスキーのチェホフのトルストイのゲーテのツルゲイネフの、サルトルのジィドのカフカのベケットの、キールケゴールのニイチェのカンントのデカルトのショーショウペンハウエルの、マルクスのスミスのヘーゲルの、それらを親しんだが、
今は忘却のかなただ。こころに残るのはヘェミングウエーだけになっている。日本で言えば安倍公房、三島由紀夫、遠藤周作、辻邦生あたりで終わっている。今の文学作品は手にしてはいない。それ以外の作家の人達には色々と教わったが忘れかけている。私はその人たちの言葉を引用して書いたり語ったりしたことがない。
 恐れ多いと感じるからなのだ。
 この生活は嘗ての同人誌作家は殆どの人が親しんだことなのだ。だが、知識として終わってそれを生活の場で追体験せずに知恵に変えることを怠った人もまた多い。その知恵がなくては、創作は出来ないということで書けなくなった人達も多い。また、如何に文学的な生活をするのかも気づかなかった人達は書けなくなって退潮していった。それが時代と言うものかも知れない、必要とされなくなって終わると言う事はまさに必然でもあった。
 今も昔も一握りの物書きしか飯が食べられない。それは当たり前のことで、必要とされない人達はその場を退場するしかないと言う人間社会の定義でもある。また、自由競争の原理なのだ。
 文学の世界は非常に保守的であり、完璧なまでの上下関係が存在している。
 これは何と言う世界なのか、今の世になってもなお続く回帰の怪奇であるとしか言えない。
 私が尊敬するのは一つの物を作り続ける職人である。
また、世間に迎合することなく自由に書き、それを図書館に寄贈する自費出版をする作家たちである。
 今の利益主義に対して背を向け独立独歩のその姿勢と佇まいには感涙するものがある。




 岡山の演劇史

 と書いても現在の動きは皆目分からない。
 「ひびき」の古市福子、「岡山新劇場」の宗、「どろんこ」の土井、そのころに藤沢陽一はいただろうか、水内などと何かの表現活動をしていたはずである。「銀仮面団」は水島公害を扱った公演をしているからそのころにはあったという事になる。この団体は公害運動を一切していないが、公害反対の公演をしているという劇団であった。何も非難をしているわけではない。
もっとも公演をしていたのは「ひびき」であり、社会派的な公演をしていたのは「岡山新劇場」だった。「ひびき」はもっぱら天満屋のイセン会館を根城にしていた、「岡山新劇場」は岡山市民会館で公演していた。「どろんこ」はアメリカ文化センターの公演が多かった。そのころ岡山国鉄の岩木敬が率いていた職場演劇は目覚ましい活躍をしていた。それは岩木敬が猛烈に創作劇を書いていたことに起因する。
 私は劇作をしていて劇団の面倒を見ていたが、岡山の劇団の公演を見ていないと言う事で語ることはできない。
 岡山の演劇の創世記は山本遺太郎氏にお任せしたい。
 私が帰ったのは、浅草の軽演劇で芝居とは何かと言う事を学んでいた時、新橋演舞場で新派の北条秀司氏に寄り添っていた頃を過ぎて岡山に帰った時からその接点が始まるのである。
 家人の故郷は公害の盛りで五十メートルの炎が何十本も夜空を焦がしていた頃である。演劇どころではなく、幼い子供たち、お年寄りがなくなっていた時期、日夜公害反対運動をし、全国の市民運動家たちとの連帯を強めていた。挙句に、やくざと警察官に追いかけられることになり、そのころに集めた「地域闘争」ウーマンリブの「エロス」宇井純の「公害闘争」などの交流が盛んで演劇どころではなかった。
 そのころ傍らで同人誌を発行し作品を書き編集をしていた。戯曲や小説を書いていた。
 テレビ、新聞、ラジオなど引っ張り出されていた頃である。
 土倉一馬が「倉敷演劇研究会」を創り最初の研究台本を私の作品で公演した。それがきっかけで何作も何作も、倉敷市民会館で公演することになる。倉敷の青年を全国青年祭への目標を掲げていた土倉は青年演劇を書くように必要に迫っていた。奪われていく海と人情を書いたり、母子の情愛を書いたり、これでいいのか倉敷を書いたりして青年祭に参加していた。「干潮、祭りの夜」で最優秀を取り東京への切符を手にした青年たちの笑顔ははじけて輝いていた。それから三回東京の舞台を踏んだ。それからは憑かれたように台本を書きまくっていた。公害も工場の煙突を高くして煤煙を拡散して誤魔化し被害は少なくなっていたが、それは被害を遠くで出す結果になっていた。おちついていた時期だけに書けたのだと思う。
 私はその間、他の劇団の作品は一切見ていない。だからそれを語る資格はない。岡山県の識者は見なくて評価する人が多いいが、私は見ていないので言葉が出ない。
 それから土倉から離れ、青年たちと子供たちを集めて演劇を通して人間学の勉強を始めることになる。二十年に届かないが七十二の公演を倉敷市芸文館を中心にこなした。
 そんな頃鈴木忠志氏が来倉し日本の演劇を世界とつなげたいのでぜひ手伝いをしてほしいという事で「演劇人会議」を立ち上げ、それが「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」へと大きく飛躍することになった。それは文化庁の後押しによるものであった。
 また、篠田正浩監督の作品に引退まで四作付き合う事になる。それは演劇人会議で知り合った人達の引き合わせでもあった。テレビ、CFと急がしい日々を送る傍ら小説を地方紙に連載、毎日新聞に随筆を三年間連載をし終えて、劇団の子供たちが卒業したのを機に、今までの生活を総て棄てて遊び人になった。
 それは心の解放と言う事だけではなく、今まで見えなかったものが新しく見えだしたという事で驚愕した。
 若い頃読んだものは心にわずかに残っていたが、世界の宗教、世界の歴史、日本の歴史を学ぶことに時間を費やしている。
 今、ふと思う事がある。自分の事ばかりで他の事をないがしろにしたのではないのか、他の劇団の公演を見ればよかったのか、見てどうのこうのと言う不遜な態度を取らなかったという事を心のよりどころにしている。
 個の表現はそれをその人達は必然としているとするならば何も言えないと言う事を理解している。
 岡山のと言う事を題にしたが、私には書く資格はない事をこれを書いていて認識出来た。
 今はそっと自分を振り返り思いに浸っている。


文学を志す人達の道徳観  2016/7/7

 まあ私の生きてきた道で色々な人と巡り合ってきた。その人たちから色々と学んだが、これはどうかな、坂口安吾、太宰治、谷崎潤一郎、佐藤春夫、瀬戸内寂聴、等の様に反社会的な生き方を物書きと勘違いをしているように思える人達もいた。つまり、本能を重視し抑圧や理性を傍においていたという事だ。
 嫁さんと子供たちがいて何回も駆け落ちをしたこと。
仕事の立場を利用して人妻や未亡人を喰ったこと。
 役所の地位を利用して若い女性のアルバイトに関係を迫ったこと。
同人同士が不倫をしたり、これなんかたいして問題にはしなかったというのは、物書きのはしくれであったためなのか。
中学校の教師をしていて教え子が援助交際をしているのを知って注意も与えなかった、その子は成績が良かったという。何とあきれるおぞましいことだ。
法を破りながらも快楽に走る生物のあり方を見ると言う事で納得をしていた。
 困るのは、岡山県下において文学作品や児童文学の審査をする人たちがそのなかにいたことである。
「着物の女性が大好きで、締め切り前に応募しようとする人達の作品を添削してそのなかから入選作を出しているのよ」
 癒着の不正が私のもとに届いていた。
 また、若い女性のアルバイトの延長を餌に不倫し、他の同人誌女性と不倫関係にあった人が審査員では、これはどうか。この人は賞を取ってその前の年に北陸の新聞社主催の短編小説賞に応募した作品が一次止まりで発表されているのを削除させている。懸賞なんかは芸能界のオーディションと同じで賞に合わなかったという事で何も恥ずかしいことなどないのだ。まあ、何とせせこましい人なのかと思った。
 ついでに、女子高で教師としていた時に教え子を孕ませていた人が児童文学の審査員ではどうか。
 私は風俗が専門ではないが風の便りで寄せられたものの一部だ。まだまだそのような事は沢山あったことだろう。
 全くそれらの人を否定しているのではない。が、その人の倫理観も検討せず過去の非人間的な行いを知ってか知らずか登用する事は主催側としての見識は問われてもいいと思う。
 これは今の瀬戸内寂聴の過去が家庭のある男を奪いそのその家庭を崩壊させた、一回二回ではない、という過去を許している社会だから許されることなのかも知れない。
 このように過去を暴露する事は人間のあり方としてはどうなのかと言う疑問は当然心を苛んでくる。
 それらの秘密知るとその人達は自然と消え、また一方的に難癖をつけて前から去って行った。それらの人の秘密を知る事はその人たちにとっては恐怖なのかもしれないが、そんなに口が軽いと思われているのかと落胆したこともある。
 やきもちを焼いているのではない、私は誰にも後ろ指を指される生き方をしてはいない自負があるからだ。
 それはその集団に近寄らなかったという事だ。
 今、私は日本の岡山の文化人と称する団体に属してはいない。
 全国から招待を受けるが付き合いがないから岡山の団体からは何もない。頂いたものに対しては絶対に返礼を欠かしたことがない。それが人間としての礼儀だと親に教わっているからである
 だがどうだろう。岡山県の文化関係のところに雑誌を送っても、書状、招待状を送っても全然受け取ったという返事がない。まあ、この程度の人達が文化を語りそれを振興しようとする事に大きな誤りを感じる。
 また、市民、県民の税金がその団体に流れていることに不信感を持つ。
 芸術に対して行政は口をはさまず見ていた方がいい、ややもすると邪魔をしていることの方が多い。芸術文化を極めたいとする人達はまず身銭を切ることなく成長しない。
 県下の色々な動きを全く把握していない。ただの税金泥棒が何を創ろうとするのか。
 先にあげた、審査員の過去と同じように何かを隠さないとならない生き方をしていると言える。ならば、真剣に文学が何かを会得して堂々と批判を刃向けて反論してほしい。
 さらに言う、怠惰な精神からは安物の真似ごとしか生まれない事を。
毎年の行事をやっているだけ、そこに新しさが見えない。
 まず生活、人が生きそして死んでいくなかで人間とは何かを感じ、この社会の中において自然と一体になり、世界の歴史が日本の歴史をどのように変えて日本人の精神を堕落させたのか、それが見えなくては新しい視点が生まれず、発見もない事を知るべきである。
 その事をおろそかなしている人から真の文学は生まれる事はないだろう。
 この事は文学だけでなく、演劇、絵画の世界にも共通するものであることを付け加えておきたい。
 岡山県文学選奨、芸術参加、土曜劇場、それらを指揮する団体に税金の無駄遣いをして、パフォーマンスにとどまっていることの自覚を求めたい。各団体に対して各自で身銭を切り好きな事を好きなようにする精神の解放がそれらを大きく羽ばたたせることだといいたい。
 


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